徒然なるままに
 
line decor
  HOME  ::  
line decor
   
 
猫じゃれ草
第38回

今から、10年程前のことである。

私は、美しいそれはそれは見事なタビ-模様を持つチャ-リ君を亡くした。交通事故であった。何台もの車によるひき逃げ事件であったというのに、その様子を楽しむ様に眺めていたという罪深き親子に対しても、何事も無かったように世の中は動いていた。それどころか、立派にひとつの命の存在を喜び謳歌していたチャ-リ-君は、道端の汚物として扱われた。

翌朝。快晴の空を、ひき逃げ事件の目撃者を募る呼びかけがヘリコプタ-のプロペラの音と共に遠く近くと聞こえていた。みぞおちの辺りから、重い塊の怒りが込み上げた。そして、もぞもぞと布団から顔を出し、泣きの涙で、私は弱々しくも宣言した。
「今度、生まれかわって来る時は猫に決めた。
そして、人間社会をのっとる猫たちのリ-ダ-に成る。」

徒然なるままに。

それから、少しした頃。

動物学者・日高敏隆教授が、「ネコたちをめぐる世界」において、「ネコも所詮人間に過ぎない。」と、大胆不敵な人間差別宣言を行った。このセンセ-ショナルな出来事は、当時の私を大いに励まし和ませた。そして、私のスイッチは切り換えられた。猫を飼う意識から、猫と暮らす意識へと完全移行したのである。

教授は、その宣言文書の中で猫との暮らし振りにおいて、だから故に強いられる猫為的被害を披露し、それらを如何にして受け入れ、乗り越える楽しみ方や勇気について、人間が久しく忘れかけている、例えば、「与謝野晶子の子育て奮戦記」のような「大家族」の感動を知らしめていた。なかでも、日高教授の大人物らしさを知るところは、学者のプライドとも云えるだろう蔵書を、仔猫たちの遊具として爪砥ぎとして、そしてトイレとして、アッケラカンと提供してしまえるところであった。この感動的な「猫と暮らす為の心得本」は、未熟な私に世の中の仕組みまで教えてくれたのである。
「そうか。意地になって守ってやらねばならないプライドなど、所詮、クソという訳か。」

 そう感じたことが、そもそもの伏線の起点であったのかもしれない。

ここに、ひとりの画家がいる。時折、出版の仕事の為に絵を描く。愈愈、順調に出来上がって来ている原稿を机の上に残して、かなり気分よく昼寝をした。嫌な予感のにおいに目を覚ました。机に向かえば、なんと!!ウンコがトグロを巻いているではないか。一瞬にして、身体中の細胞が一気に目を覚ます。振り返れば、花が、そわそわドアを前足も忙しくカリカリと部屋を出ようとしている。

大丈夫。怒りは身体中に漲っている。しかし、怒れないのである。
「君なのか?!」
その言葉も、声になることは無く体液に吸い込まれて行く。いずれ、この怒りはトイレに排泄され、水に流されるのだ。
「ま、良いか。花に誉めてもらって、ハナマルの運がついた、ということで。」
笑ってしまえば、一切が終わる。

「猫と暮らす」ということは、人間形成の修行である。
今日も、私は猫たちに育てられている。